初代親先生御教話 昭和四十七年八月十八日 朝
御理解 第六十八節 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはな           らぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがた           そうに心経やお祓いをあげても、心に真がなけれは神にうそを言           うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。           小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけ           たりせんでも、人にものをいうとおりに拝め。」
 雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならんと。雨やら風やらの時ではなくても、いうなら、平穏の時、雨でもなければ風でもない時、いうならお天気の時、そういう普段の時に、辛抱の時を身につけていく修行が普段からなされておらなければ、いよいよその時だけ、雨が降るから、風が吹くからという時だけ出来るもんじゃない。
 常日頃が大事。もうそれは小さいことがら、茶飯事の中からでも、いわばちょっとした辛抱と申しましょうかねえ、というようなところが稽古されていくうちに段々、自分というものがなくなり、我がなくなり、いわゆる辛抱せんでもすむという程しのおかげ。
 雨でも風でもわざわざ力まなくても、只有難く受けてゆけれるといったような状態が頂けれる。心に真がなければとこうおっしゃる。いつも自分の心の中にいわゆる信心ごころというものがないと、簡単な事に失敗をいたします。
 昨日、私は親教会に話合いがありました、御案内を頂いておりましたから、高橋さんに送ってもらってあちらへ参りました。
 帰りましたのがやがて午後の四時だったでしょうか。もう余りに合楽でおかげを受けておりますもんですから、まあいうなら、冷房のある部屋から冷房のある部屋へとおかげ頂いておりますから。それにもう、昨日はとりわけ水を沢山飲みましたから、もう暑いこと汗の出ること。何時間とまあいうなら大修行でした。
 それでその何時間をいろいろなお話を聞いたりさせて頂いたりして、帰ってまいりましてからね、もう早速冷房のきいた部屋で汗をひっこめようと思うてから、参りましたら、昨日は御承知のように、大祭前のお掃除でもう、てんやわんやで、御婦人の方達がここでいっぱいお掃除があっておりまして、私はの控えなどはもう、まだ一生懸命ちらかしてあるところでした。
 ですからその足ですぐ奥の間に参りましてから、奥の間で着替えさせて頂いて、まあ、ヒヤリとしょうと思いましたら、奥の間も、家内と愛子が一生懸命大掃除して、あけっぱなしてしとるところでございます。
 それでそのいうなら、行くところがないから、さあ今からシャワ-でもかかってからその間に部屋を冷やさせてと思うたけれども、皆さんが一生懸命御用頂いておられますから上着だけとってから、こちらへ参りましたら、丁度秋永先生が、丁度親先生あなたにお尋ねしなければならない事がありますと。
 ここの脇殿の事で、内装の事でいろいろ御相談せんならん事があった。あれはどんな色がいいか、これはこんな風に思うとりますがどうでしょうかという、ちょっと見て下さいというて、そのまま私はまわらせて頂いて、それから共励殿でいろいろとその事の協議をさせて頂いた。
 まあそれまでの事を申しますと心に真がなければ、心が真心でなからなければという心が信心でないと、私が善導寺からこちらへ帰らせて頂きました何時間かのうちに、不平不足まではいかんでも何とはなしに、いやな思いなんですよ。
 暑い、暑いと言うとらにゃならん。暑いことでも寒いことでは、おかげと今日はよか修行させて頂いて、汗がぶるぶる流れて、よか修行させて頂いてとは思うてないわけです。 早う帰って早う涼しい部屋にと。それで行ってみたところみたところが、どの部屋もこの部屋は開けっぱなしで大掃除があっておる真っ最中であった。
 そん時に家内に私が、ちゃんと俺が午後から帰って来ることはわかっとるじゃけん、何故冷やしとかんかとまでは言わなかったけれども、そういう心が心の中にあるのです。
 もう黙ってこちらへ出てきましたけれどもね。それから今日は合楽会でしたから、今日は合楽会が屈指の方達が早くみえまして、屈指の方達が一通り話が終わっとったから石浦の方達がもう十時頃から見えました。
 それから又、丁度十二時半まででした、まあお礼をして休むのは一時半もありましたでしょう。そういうようなわけでございましたから、今朝私起きてから、洗面をすまさしてもらって、奉仕着をつけようと思った時、奉仕着がない。
 もう家内が必ず奉仕着は綺麗にたたんで、枕元にちゃんと置いとってくれるんです。 それから納戸で脱いだから、ああそこで脱ぎちらかしとるじゃろうと思うて、納戸へ参りましたら、納戸ではきちっとたたんであって、只、部屋へ持ってくる事だけを忘れておった。それから着ろうと思うたところが肌着がない。それから又風呂場まで肌着を取りにやらせて頂いた。まあ行ったき来たり、朝の貴重な時間をさせて頂く時に、そんなら私の心の中に穏やかという事よりも有難いなあという心だけしかなかった。
 例えば昨日の昼の事はず-っと穏やかではなかった。暑いも寒いもおかげだぞと、有難いのだぞと、今日は暑いからおかげで受けさせて頂くというふうな思い方というのはさらさらなくて、暑い々、早う帰って涼しいところに早うヒヤッとした部屋にと、こういう思いだけであった。
 ところが開放してしまって、どの部屋も暑い部屋ばかりであったという時には、私の心が穏やかでない。これどもは私はね、心の真がなかったからだと思うです。
 真の信心がなかったからだと思うのです。それでも日頃信心の稽古をさせて頂いておるもんですけん、それが爆発的に怒りちらかしたり、あたりちらかしたりという事ではない そしてここへ出てきてみて、はじめて秋永先生が親先生ちょっと見て頂かなければ、聞いて頂かなければならん事があるという事を聞いて、はじめて、ははあ、なるほど、この肌着一枚で、汗ぶるぶるしながらでも、あちらまわり、こちらまわりさせて頂いて、話合いをするのですから、ははあ、これでよかったんだとはじめて思わせて頂く。
 ちょっと時間がかかっております、ですから、ここんところは、まあいうならば、辛抱しておるわけです。そういう例えば昨日一日はそんなら、辛抱の一日であった。どこでもそれからというてあたりちらかしたり、爆発したりはひとつもしてない。
 只、心の中に辛抱して、そしてそういう事もおかげであったと後で又気がついておるという事です。
 そうすると、そんなら今朝の事になってくると、もう即有難く頂いておる。以前の私なら、家内をすぐ起こしたでしょう。「おい、奉仕着がないぞ」「下着もないぞ」というて起こしたに違いないですけれども、昨日はそれで家内も疲れておるから、もう出来るだけ起こすまいと、ぐっすりやすんでおりますから。
 しかも行ったり来たりしよりますよね。風呂場に行ったり納戸に行ったり、そして来てから、又なかけん取りに行ったりして、襖開けたりせいたり、でも、静かに々こう、しめて、家内が十分間でもやすませようという気持ちがあるわけです。
 俺の奉仕着は、毎晩々ちゃんと持って来とらじゃこいて、ちりがみでもハンカチでもちゃんと寄せとらしゃこて、毎日のこつじゃけん、わからんかと例えばいうような思いはもうさらさらない。
 そしてあの家内が出来るだけおずまんようちという、その、そういういわば、自分の態度というものが実に有難く思えれる。
 例えば悪い人をね、あの人は悪い人だと思うてその人の事を祈ったって、神様には通じんとおっしゃる。あの人はどうした根性の悪い人じゃろうか。
 これはどうしただらしのない人じゃろうかと言いながら、その人の事を祈ったっておかげにはならんて。だから、まあだ辛抱せにゃならん程度ぐらいの事で祈ったってたいした事はないわけです。
 けれども、そんなら今朝の私の三時半にここに出てくるまでの、私の心の状態というのはです、もうこういう心の状態で祈る時に、人が助かるんだなあという事です。
 私は信心させて頂いて祈っておかげを頂くという事の一番大事なポイントになるところだと思います。
 家の息子はどうしたわからん息子じゃろうか、家の娘はどうしてこげんだらしがないじゃろうかと、例えば言いながら、娘の事祈ったって息子の事祈ったって駄目です。
 朝は私の一番貴重な時間です。ですからもう置いたもの取るようにして、本当いうたら私と一緒に目がさめて家内が私の奉仕をしてくれなければならない。
 昔ならかえっておぞむごとしたかもしれない。いや起こしたかもしれない。けれども、最近の私はそういうような今朝は不手際なこと家内としては事だったですけれども、もう疲れたまま寝とりますから、今朝も私が起きる時にはぐっすり寝こんでしまっている。
 それを起こそうという気どころか、一時でも寝すませようという心がある。肌着も持って来とらんじゃんか。奉仕着はどこにあるかと言わんでも、只、自分が行ったり来たりさせて頂きながら、襖を静かに静かにしめておる自分が有難うなる。
 そういう心で願う。だからこのくらいの事は皆さん、雨が降るから風が吹くからといった時の辛抱だけではなくて、もう日常の中に沢山あるでしょうが。
 それでも私もそんなら、今日一日の親教会にやらせて頂いて、今日はもう日頃本当に冷房のきいた家にちぁんと居らせて頂いておかげを頂いておるが、日頃のおかげを頂いておる事のお礼こそ申し上げにゃならんのに、もう暑い々というばかりで、早う帰って涼しい部屋に入ろうというような心ばっかりで、いわゆるこれは心に虚言を頂いて言うておるようなものです。自分の信心に。
 本当に病気をしてから、はじめて健康の時の有難さがわかるというて、健康の時の有難さがお礼が足りない事を、いつも私は皆さんに言っておるわけです。
 今日そんなら、たった数時間暑い思いをしたことによっんて、日頃おかげを頂き過ぎる程しにおかげを頂いておる自分という事を、どうしてお礼心が出らなかっただろうかと思うくらい。しかも帰ったとたんに、私の部屋はもう入れたらすぐ冷えるけど、大掃除でいっぱいひっくりかえたなり、というて奥の方へやらせて頂いたら又そこでまだ開けっぱなしてから、バタバタ埃うったりしておるところである。
 それこそ舌打ちが出るような感じ。というてそれがそんなら、爆発的なものではないけれども、只じ-っとこう抑えておるというか辛抱しておるという、だからこの辛抱も大事な事。だからそういう辛抱が重なりに重なって辛抱せんですむ程しのおかげを頂いた時がお徳を受けた時、辛抱する時こそが信心の稽古をさせて頂きよる時。
 だから昨日から今朝にかけての事は、昨日は私は辛抱しながら信心の稽古をさせて頂いた。まあ、昨日は大変な忙しい事でした。合楽会でお話をしよると若先生達が昨日は編集の方達ばっかりが四、五人集まって応接室で私に聞かなければわからない事がいくらもあって、呼びに来た。そしてからまた、こちらへ来る、共励殿では○少が何かやっていて、それで今日はもう早う寝すんでもおらんから合楽会でも片づけてから、もう十一時くらいには寝すまれるくらいにするぞと思うとりゃ、あんに相違して、屈指の片達だけは、いつも遅い方達がみなん早く見えておる。
 そしてそんならもう、これで御無礼しますと帰りかけよんなさるところに、石浦の方達がみえる。だから昨日はもう二部席でした。合楽会が二つにわけて、しかも又後は後で熱心な共励あさせて頂きましたから、十二時半まで。
 それで早く寝すまんならんというのが帰っていままでもというような事ですけれども、そんなら昨日は一日は何というても信心の稽古をさせて頂いた日という感じがします。
 そしてそんなら今朝に至った時には、もう既に稽古ではなくて、その辛抱こそ身に徳を受ける修行しゃという、いうならある意味合いで徳を受けた信心の姿の時が、今朝から只今までの時間がそうである。
 ですから、この雨風が吹く時だけ辛抱せろと、その平穏の時、当たり前の時にです、つまらん事に腹を立てたり、いらいらするという、いった事がなくてすむ程おかげを頂きたい。何故ならば、そういう心で祈ったって神様には通じないて。
 本当の事はおかげにはならんて、どうしたあの人は根性の悪い人じゃろうか、あの人はどうしたずるい人じゃろうかと言いながら、そういう心で神様に向かうたところが、それは自分の願いであって、神様がお受けになるはずはないですよね。そうでしょうが。
 人をいうなら、悪く言う心で御祈念しよったら。だから例えは相手が悪い人であってもです、その悪い人を悪く思わんてすむ心で祈れという、信心とは。
 今朝からの場合はそういう事になるのです。けれども、人間という者は、もう本当にもう人間の心てもうちょっと、そよっと風が吹いたら、もう心がす-っととこう乱れようとするですね。
 今朝私が今のような話を聞いて頂いたのは、昨日は繁雄さんがおって頂かないと困る事ばっかりあってわけです。大掃除で繁雄さんに聞かなきゃわからないというような。
 ところが昨日見えてなかったわけです。同時に昨日はだっ【】が大変多くてから、お初穂を誰か、かわりの人にしてもらってから、してもらわんとかえる金がないからと、博通先生が申しますけれども、私はそんなら善導寺に行かんならんというて、かわりの人は、私がまだ神様からお許しを頂いておる人は一人もない。繁雄さんでなからにゃ、いうなら出来ん。
 だから、夕べの合楽会には見えるもんと思うて、見えたら早く整理をしてもらおうと、こう思うておったけれども、とうとう見えなかった。
 そしたら今日も見えなかった。それから御祈念半ばに後ろの方にああして座っておられるのを、チラッと見た途端に私の心がポッとこう乱れるのです。
 それで私は神様にお願いさせて頂いたら、その乱れたその事を今日はだからお話にしてるわけです。
 勿論、六十八節はもうそれこそ、どれ程頂いたらわからない程しに繰り返し々頂きますけれども、繁雄さんがチラッとあそこに見えて、私の心がそよっとした風に乱れてから、「今頃どん来てから」といったものが心の中に動くわけです。
 そうすると、いやいやそげなこつじゃないと祓わせて頂くその事を、だから今日は聞いて頂いておるわけです。だから今頃どん来てと思う心は既に信心じゃない。それでもそれを抑える事は辛抱ですから、信心の稽古になります。
 そして繁雄さんのああいう真面目な方ですから、何かよっぽど都合があったに違いないと、繁雄さんの心のお繰り合わせを願うような心こそが本当は神様に交う心。
 だから、その一瞬、そういう事から、ふっと昨日一日の事を今朝からの事を思うて繁雄さんを見て、チラッと心が動いたところから、今日の御理解は頂いておる。
 だから六十八節でこういう、御理解頂いた事ははじめてですよね。いわゆる雨が降るとから風が吹くという時ではなくて、本当に雨が降る、風が吹く時には、本当に有難く頂ける事のこめに、元気な心で受けさせて頂く事のために平穏な時に稽古させてもらえば、稽古させて頂く事が沢山ある。
 そして私は今朝からのお夢を思い出させて頂いた。ははあ、どういう事じゃろうと思うたら、この事だなあ、おもしろいお夢を頂いたんです。
 私が桜井先生にね、私切れと言っておるわけです。袈裟斬にパ-ッと私が座っとって後ろから刀で斬ってみなさい。私がどのくらい驚くかどのくらい安心の心頂いとるか、あんた後ろから斬りなさいと桜井先生に言いよるとですもん。
 そしたら桜井先生が遠慮深い方ですから、そうですかと言うてから、刀を持ってからサ-ッと当てよんなさいますもん。「そげなこつで斬るるかい。パ-ッと勢いようならじゃこて」と言うたら、声をヤ-ッと言うてから斬りよんなさいますばってん、刀をちよっとチラッと血が出るくらいですもん。
 「そげなこつじゃいかん」というたら、三べんめに言うたら、少しばっかり斬れたところです。そしたら私がそれを押さえてですね、「今が辛抱のしどころ、しどころ」と言いよるお夢じゃった。
 どういう事じゃろうかと思ったんです。私は実はわからなかった。そしたらお話をこうやって聞いて頂いておるうちに、ははあお話を今しておる事だなあと思うた。
 例えば今朝から只今までの繁雄さんをみる前の私という者は、もう完全無欠と言うてよいくらい、私に隙があったら、いつでも、どこからでも斬りなさいと、私が修行生に言うわけなんです。
 けれども実を言うてそんな事はない。斬り込もうと思うても、やっぱ遠慮して斬り込まんだけの事だろうとこう思うです。
 同時にそんなら、自分という者を空しゅうして、いわゆる人間は一辺死んだら二度死なんですむと言いますでしょう。だから本当に死んどるならばですね、私が今が辛抱のしどころなんて言わんでよか。
 桜井先生は私はひどく「斬りなさい、そげなことで斬れるもんか、さあ-」と三べんめにようやく少しばっかり斬りなさった。
 それまで、遠慮深うちょこっと、こうやって当てるだけ、そして、袈裟斬りにスパッ-と斬ってしまいなさいと私が言いよるところ。
 けれども遠慮して三べんめに斬られたのは、少しばっかり斬られたら、やっぱその痛いとまでは感じんけれども、恐いというか、痛いというかそげなもんがおりまぜったような心の状態という事が、例えば昨日一日の事は、そのう事じゃなかろうか。
 いわゆる自分という者を空しゅうしておればです、暑いも感じなければ、寒いも感じないはずでしょうが。それに昨日私は、暑い寒いを感じておるという事はです、口ではもう自分は空しゅうしとる、もう我情我欲はない等と言いながら、又は皆さんには、降ってもおかげぞ、照ってもおかげぞと言いながら、病気をしたなら、健康の時お礼が足りんのぞと言いながら、自分暑い思いしよりゃ、只暑いばかりで、日頃おかげを頂いておるという事は、これから先も思い出しとらん。
 そして早う帰って冷房の効いた部屋に入ろうというだけしかない。そしていよいよ冷房の効いた部屋に入ろうという時に、どの部屋もこの部屋も開放して大掃除があっておる時にはじめて、少し気がついておる。
 というような事はです、丁度桜井先生に私をスカッと斬ってみなさいと言いよるのとお成し事じゃなかろうか。そして本当に斬られたところがやっぱちった怖かった。それは自分を空しゅうしとらん証拠、口では言いよるけれども。
 そして斬られたら、血が出てきた。そして肩をこう押さえてね、今が辛抱のしどころ、しどころと言いよるところ。まあだ私の信心も、だからいわゆるその辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃという徳を受けるための過程にしかすぎないなと私は思うた。そういう事だったなあと思うのです。
 皆さん私が、昨日、今日からの事を聞いて頂いて、皆さんの家でも沢山あるでしょうが だから辛抱せんならんという時にはね、まあだ昨日の私の一日の事と同じ事です。ちょんと思いを替えさせて頂いたら、本当に今日は汗ぶるぶるで暑い中に、本当に合楽ではおかげを受けておるなえと思うたら、そのお礼を言いよったら、暑い事なんか消えるくらいにあらなければいけない。
 ところがお互いの場合には、その辛抱こそという事ではなかろうかと思う。心に真がなければ、神に虚言を言うも同然。真という事は、真の心と書いて、真心と今日は聞いて頂いた。私共の心の中に、その真心がある時、例えばそんなら私のいわゆる朝の三時半から御祈念を終わらせて頂く迄のこの時間だけは、もう私がある意味に於いて、真心になり、こういう時に斬られたなら、ああ、成るほど、親先生は素晴らしいという事になるのじゃないでしょうか。
 それこそ相手に遠慮心を起こさせないと思うから。ところがちこらに、まあだ桜井先生に遠慮心を起こさせるという事は、斬ったら、痛うあんなさるじゃろうか、ああ痛よと言いなさらんじゃろうかてというふうなものを感じさせておるという事です。
 まだそのくらいに完璧ではないという事です。このへんのところを皆さんよう思うてみて一生懸命お願いしよるが、只、その事が苦になる、その事がほんに、あの人はと、例えば恨んだり、妬んだり、憎むような、例えば心で自分の心を見ることはせずに、人の方ばっかり目につくような心で祈ったところで、その祈りは本当に神様がおかげをくださるという祈りではないという事。
 人の足元どん目に見えるといったような事ではおかげにならん。今朝から申しますように、どういう朝のそいう貴重な時間であっても、そこにいろんな準備は何一つ出来てなくても、その準備を自分でしながら、行ったり来たりしながら、それでいて家内を起こそうかという気も起こらない。
 もう夕べ例えばきちっとたたんではあるのだから、持ってくるずじゃったろうけれどももう、眠いままにそのままやすんどるから、本当に疲れきっとるから、五分でも十分でもやすませたいという、出たり入ったりする時に、襖を静かにせかせて頂く心を、自分自身で拝みたい。
 それが私は信心辛抱の徳だと、そういう心が四十六時中頂けた時に、私は生神金光大神の境地というのは、そういう事だと思う。
 雨風の時だけ辛抱するのではない。雨風ではない時に、そういう日常の自分の周辺に起きてくる様々な事柄やら問題を通してです、辛抱の稽古をさせてもらいそして、そしいう事は辛抱せんでもすむ程しのおかげ。
 大きな心とは、どのような場合であっても、辛抱せんですむ程しの心。松という字を木編に公と書いてある。木は心、心、ハムという時、心は無という時、自分の我情もなければ我欲もない。いわゆる我を捨てきった時の姿こそが、大きな心。
 だから人が馬鹿と言うても阿呆と言うても腹が立たんですむ程しの事。人の足元どんが見える段じゃない。みんな全てが有難く美しく見えるという、そういう心が大きな心。
 ですから、私の朝の何時間かはその心のまあ見本のようなもの。けれども、昨日から一日の事は、まあだ私も特別に雨とか風とかという事はないけれども、平穏無事の日にいうならば、神様が辛抱さして下さる稽古をさせて頂いた、昨日一日であったという事になります。
 何故、それを稽古しなけれはならないか、そいう心がけ稽古をしなけれは、神様に本当に交わないて、あの人は悪い人だなあと、あれはずるい人だなあと思うような心でね、神様に祈ったって駄目。
 悪い人でも悪いと思わんですむ心で祈らせて頂く祈りこそ、神様にそのままが交うのです。そこまでいく為にです、私共は日常の中に、いわゆるここは黙って治めんならんなという、黙って治める修行というか、身に徳を受けていく修行をです、もう、そういう修行だったら一日中、沢山あると思うのです。
 だから、こまがにね、いわゆる、めごもう信心をそのような事を焦点を心の中に頂かせて頂くという事が、それがそのまま、心が信心に、いわゆる心に真がなければとおっしゃる。心に真がある時、心を神様に本当に向けておると時という事になるのです。神様にいつも心を向けておればです、暑いという事に、むしろお礼の心が出るでしょう。
 心を神様に向けておらんから、只暑い事が、じゅずない事ばかりが、じゅずない々と早う涼しいところへ行こう、ひやっとあるところへ行こうだけしかない。
 いわゆるおかげ急ぎです。だからおかげ急ぎをする前にです、あの暑い中に有難いお礼の申し上げれる心を作らせて頂こうというのが、私は信心だと思う。
                           どうぞ。